ITサロンせたがや主催による散策、樋口一葉の足跡を訪ねました。
平出 洸氏のご案内で説明を受け、その日は晴天に恵まれ、一日有意義に過ごし終了しました

スナップ写真  

樋口一葉記念館
(台東区3−18−4)交通 東京メトロ日比谷線・三ノ輪駅下車

明治27年4月かあら28年4月まで、駄菓子屋を経営しながら「花「ごもり」「琴の音」などを執筆し、また「三人冗語の石」で鴎外・露伴・露雨の三人かあら揃って誉められた名作「たけくらべ」の舞台ともなったこの地に昭和36年5月11日に建てられた。
女流文学者の単独館としては、わが国初で、原稿や遺品が展示されている「たけくらべ」は「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれないしの車の往来にはかり知られぬ全盛をうらなふて、大音寺前と名は沸くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申しき・・・」と書き出されているが、「大音寺前」が現在の竜泉」である。吉原の面影はいまや偲ぶよしも無い。
館の向かい側には、一葉記念公園があり、「一葉女子かけくらべ記念碑」に羽佐佐木信綱(1872〜1963)が「紫の古りし光にたくへつべし君こ々に住みてそめし筆のあや」「そのかみの美登利信如らもこの園に來あそぶらむか月しろき夜を」の二首を記している。(昭和26年11月)。

樋口一葉居住跡
(台東区3−15−2)

記念館の近くに有り、昭和35年に塩田良平筆に碑が建てられた。「此家に下谷より葭原が夜樋の只一筋道にて夕がたよりとどろく車飛ちがふ燈火の光たとへに詞なし。」(明治26.7.20日記)
「鶉なく声もきこえて花すすきまねく野末の夕べさびしさも」

桜木の宿・法真寺 (文京区本郷5−26−4)
 東京メトロ丸の内線・都営大江戸線・本郷三丁目駅下車

法真寺(浄土宗)の隣には一葉が明治9年(1876)から同14年(1881)まで4歳から9歳になあある5年間に住んでいた。大きな家で敷地233坪、建坪45坪もあり、樋口家にとって最も豊かで安定していた時代であり後年一葉は「桜木の宿」と呼んで懐かしがった。
「桜木の宿」については短編小説「ゆく雲」(雑誌『太陽』明治28・5)の中で「上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて、寺内広々と桃櫻いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見よろすに雲は、棚曳く天井界に似て、腰ごろもの観音さま濡れ佛にておはします御肩のあたり膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて前に供へしの枝につもれるもをかしく」と描写している。

東大赤門
(文京区本郷7−3)

徳川幕府11代将軍徳川家斎(1773〜1841)は冶世の長さ(1787〜1837年)も、子供の数からも歴代将軍のナンバー1であった。
確認されるだけでも側室は40人、子供は、55人(男26、女27、死産2)成人したのは25人(男13、女12)その殆どが大名家に入るか嫁いでおり、前田家も12代藩主前田斎泰(1811〜84)は34番目・21女で14歳の溶姫(1813〜68)を文政10年(1827)正室に迎えることとなった。
将軍家から三位以上の所に降嫁した奥方は御守殿と呼ばれる独立した一郭に住むことになり、門も建造され慣例により丹に塗られる(理由は不祥)が前田家 のそれがこの赤門で文政11年(1838)の完成である。

菊坂の家と使った井戸ポンプ
(文京区本郷4−32−31)

父没後、明治23年9月から26年7月に掛けて母、妹くにの3人で住んだ。その時に使用したと思われる井戸ポンプが残っていいる。途中、路地を挟んで西側へ転居するが、それは半井桃水が来訪した時余りに家が狭かったので妹が引越しを奨めたからである。(明治25.3.18)

伊勢屋質屋
(文京区本郷5−9−4)

「此月も伊せ屋がもとにはしらねは事たらず、小袖四つ、羽織二つ、風呂敷につ々みて、母君と我ご持ゆかんとす。」(明治26.7.10)「此夜さらに伊せ屋がもとにはしりてあづけ置たるを出しふた々び賣に出さんとするなどいとあはた々”し。」(明治36.7.10)「時は今まさに初夏也。
衣かへもなさではかならず。ゆかたなど大方いせやが蔵にあり。夕べごろより蚊もうなり出るに蚊や斗は手もとにあるなん、これのみこ々ろ安けれど、蔵のうちにはるかくれ行ころもがへ」(明治28.5.17記)伊勢屋の昭和57年に廃業したが、土蔵は一葉が通った時のまま残っている。

終焉の地
(文京区西片1−18−4)交通 都営地下鉄線・春日駅下車

明治27年5月1日、竜泉寺から引越して死去するまで住んだ。「家は本郷の丸山町とて、阿部邸(注・西片町の元福山藩安部家下屋敷)の山にそひてささやかなる池の上に立てあるがありけり、守喜ちひしうなぎ屋のはなれ座敷しとてさのみ古くもあらず、家賃は月三円也、たかけれどもこことさだむ。店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すもわづらはしく心うき事多かれば得か々ぬ也」(明治27.4.28記)。
収入は、萩の舎の助教手当てg2円という大変な貧乏暮らしではあったがこの土地で「やみ夜」「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」などの普及の名作を次々に12編も生み出し「奇跡の十四ケ月」と言われる文学的には最高潮の時期を送った。なお家は明治43年8月に台風による崖崩れに跡形も無かった。明治29年7月から結核のため病床に伏すようになり、11月23日午前中(時刻不明)に死去。
24歳8ケ月のあまりに短い生涯であった。この地に建つ「一葉樋口夏子碑」(昭和27.9.7竣工)は、野田宇太郎(1909〜84)が一葉の日記を碑文に選んだもので、日記の部分は一葉自身の筆跡、その他は平塚らいてうの揮亳による。

萩の舎跡
(文京区1−9−27)

春日交差点から富坂橋方面へ向かって安藤坂を南へ下ると左側に一葉が学んだ中島歌仔(1841〜1903)主宰の萩の舎跡の看板が建っている。

中島歌子の歌碑
(文京区春日1−5−2)

萩の舎を更に少し下り、小石川保健所を左折すると正面に北野神社の石段が目に入る。54段の急な階段を上ると右手に中島歌子の歌碑「雪中竹」がある。歌子没後の明治42年(19909)に弟子たちが建立したもので、弟子の鍋島候夫人・栄子の字で、「ゆきのうちに称さしかために若たけの生ひいでむとしのひかりをぞおもふ」と刻まれている。堂々たる歌碑である。


(杉並区1−8)京王帝都線・井の頭線・明大前駅下車

墓は、築地本願寺和田堀廟所にあり、墓石に刻まれた戒名は「智相院釈妙葉信女」である。
註:
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